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:::沈葆楨 1820年~1879年
沈葆楨略歴:
沈葆楨
伝統的な士大夫(帝王の師と為す)の家庭に育ち、19才に科挙制度(高級官僚をペーパーテストで選抜する制度)で挙人に、29才でさらに進士まで選抜されたほど優秀な人材でした。才能と人品が認められ、林則徐の婿になりました。太平軍の反乱により内戦で、沈葆楨は江西省要塞の広信鎮を守りきったため、一気に全国有名なヒーローとなりました。曾国藩も沈葆楨の才能を買い、江西省の巡撫まで昇進しました。母の服喪を終えてから、船政大臣まで大昇進をしました。

沈葆楨は左宗棠から最新型軍艦を継ぎましたが、近代的な軍隊でないといくら最新型の武器を持っても戦力にならないと考え、「船政学堂」(海事学校)を設立しました。船政大臣に就任してから、近代的な国防システムを作るのに、様々な改革をしなければならないと考えていました。実際、本格的に改革を推進したが、当時利権の既得者から厳重な抗議をされ、また官僚汚職で福州船政局は一度資金調達の困難に陥りました。そのため、晩年になった沈葆楨も時間と勢力を資金調達に使いました。沈葆楨がなくなってから5年目(1884年)、彼が一生懸命経営してきた福建水師は中国とフランスの戦争で完敗してしまい、福建水師の時代が終わりました。

 
台湾での建設:
牡丹事件後、1874年、沈葆楨は台湾での良好な防衛系統を建設するようと命じられました。沈葆楨は台湾で短いながらも1年間で様々な建設を推進しました。:
一、軍事建設
安平で洋式の巨砲を設置する砦を建設するため、フランスのエンジニアを聘請しました。建設が完成した時に、「万流砥柱」、「億載金城」という字を内外の門額に書し、ここから国土を守る重大な責任を負わなければならないという意味を込めました。これが現在の億載金城です。沈葆楨が巡撫として台湾を統治した時代以後は、この土地が一年中春のような穏やかな気候であるために、「恒春」と改名されました。1874年には牡丹社事件の衝撃を受け、清国はこの地域の海防を重視し始めます。当時、台湾南端には全く防御設備がなかったのですが、直ちに恒春に城を設け、現在の街並みが誕生しました。
 福建巡撫が台湾に移駐することで、台湾軍政の弊害を解決するようと上奏しました。光緒元年(1875年)、清はその提案を受け入り、福建巡撫に冬と春の時期に台湾に駐在し、夏と秋には福建に駐在しました。これで台湾は現代化に一歩を邁進しました。

二、開拓と教化
台湾の東部との連絡道路を建設するため、台湾の中央山脈主脊を越え、開拓を進みました。それぞれの路は現在の蘇花公路、新中横公路、南廻公路の前身と八通関旧道です。原住民の教化、学校の設立などを促進し、政教建設を台湾の東部まで(現在の台東)拡張しました。
三、渡台禁止令の廃止
1875年2月、渡台禁止令の廃止により、中国人は自由に台湾へ移住することができ、荒地を開墾することにより台湾の発展にも促しました。  沈葆楨は台湾での開墾する人を募集するため、アモン、汕頭、香港で招墾局を設立し、渡台の希望者に船のチケット、種、住宅の建設費と1年半の食料を与え、さらに水田と乾田それぞれ1甲(約2934坪)、十人ごとに農耕牛4頭、農作業道具4セットを与えました。3年に経ってから租税を徴収するなどの好条件を提示し、移民を奨励しました。

四、県を増設
沈葆楨は台湾に来た当初、軍事、政治、文化、教育などは台湾の南部を中心とし、台湾府の行政区とは台湾(台南)、鳳山、嘉義、彰化の四県と淡水庁、葛瑪蘭(gamalan;宜蘭)庁でした。台湾各地を統治しやすくするため、行政区域を拡張し、淡水庁を新竹県に、葛瑪蘭庁を宜蘭県に編制し、艋舺に増設した淡水県は新設の台北府により管轄しました。台北府は現在の台北県市全域を管轄し、現在の台北市街は台北府の淡水県に属していました。これで台湾の発展重心は南部から北部へと移りました。

五、鉱山の採鉱と減税
旧制で台湾の煤を輸入と輸出する際、同じ税率で徴収されたため、鉱山の採鉱は不利な状況に陥りました。沈葆楨は清に煤の輸出税を軽減するようと上奏し、これで煤の採鉱を促し、地方経済の発展にも良い影響を与えました。

六、風俗、道徳を正し
沈葆楨は君主制国家が主導する官僚政治体制を固めるためには、忠君愛国の臣民道徳によって国民を教化する必要があると考え、鄭成功の功績をたたえて沈葆楨が廟を建てて鄭成功が祀られ、民間での鄭成功に対する尊重と信仰に基づき、間接的に皇帝への忠誠を提唱しました。沈葆楨は清の康熙帝に鄭成功が明朝の遺臣であって逆臣悪人でない事を強調し、これを記念する祠の建設を建議する意見書を提出しました。清は鄭成功を明の遺臣と認め、廟を建設することを許しました。清は元にある開山王廟を福州スタイルの廟に拡充工事をし、忠義をたたえ、「明延平郡王祠」と改称しました。台湾で唯一民族英雄を記念する廟です。

※牡丹社事件とは、1871年、琉球宮古島の役人69名が、尚王朝に年貢を納めて帰る途中、突然、風に遭って屏東県牡丹郷に漂着し、パイワン族に殺害された事件であります。
 
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