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:::鄭成功 1624年~1662年
鄭成功略歴:
鄭成功
鄭成功(Zheng Chenggong)は幼名を福松と言い、元の諱は森、字は明儼、号は大木、1624年生まれ、泉州南安石井に在籍しました。鄭氏は儒教の門生で、「国子監」修了、大学学者「銭謙益」の下で授業、詩を作ることは得意で、特に「五言古体」が専門です。

鄭成功は鄭芝竜の息子であり、父、鄭芝竜は早年、叔父さんと一緒に品物を輸出入するため日本へ行きました。その後、田川七左衛門の娘の田川松と知り合い結婚しました。徳川幕府政府は、中国のビジネスに対して厳しく管理し、脅迫したため、政府軍や商売敵との抗争のために武力を保持していました。また、鄭一族は武力で長崎を取ることという計画に失敗し、その後、敗軍の鄭一族は勢力を立て直すために台湾国へ逃げ込み、そこを明王朝復興の拠点としました。東南アジアを荒らしした海賊にもなりました。明崇禎元年(1627年)、鄭芝竜は清に投降し、崇禎12年(1639年)、台湾国を占拠していたオランダ人を追放し、翌年福建の總兵になり、一気に富貴を捉えました。

1630年、鄭芝竜は7才になった鄭成功を日本から故郷福建に連れて帰り、先生を招聘し勉強させました。崇禎11年(1638年)、鄭成功は15才となり、南安県学員生に選ばれて、18才に礼部侍郎董颺先のいとこと結婚し、21才に南京太学で銭謙益を師に日々精進に励んでいました。 弘光元年(1645年)5月、清軍は南京を攻略し、弘光王朝は滅亡しました。6月に唐王は福州に即位し、弘光を隆武に改称しました。9月に鄭芝竜は鄭成功を連れ、隆武帝に謁見し、隆武帝は鄭成功に国内情勢とそれの対策についての意見を聞き、隆武帝から明皇帝の姓である朱姓を賜ったため「国姓爺」と呼ばれることになります。

隆武2年(1646年)2月、隆武帝は鄭成功に鄭鴻達と鄭彩が元帥(げんすい、軍人に与えられる最高位の階級または称号)を勤める軍隊と一緒に建寧へ出発し、鄭芝竜に現地で留守するようと命じました。6月に、鄭鴻達と鄭彩軍は惨敗し、隆武帝は復興の事業は鄭成功に託するようとなり、忠孝伯佩招討大将軍の称号を与え、仙霞関を鎮守するようと命じました。8月に、鄭芝竜は仙霞関にいる鄭成功に母が重病であると偽りを伝え、鄭成功はそれを信じ、慌てて安平へ戻った時、清が仙霞関に陥落しました。鄭芝竜も福州を清に押さえられました。鄭成功は叔父の鄭鴻逵の助言により金門まで逃げ込みました。清は安平まで攻落し、また、鄭成功の母親を殺害しました。鄭成功はひどく怒り、安平まで軍隊を派遣しました。この時、鄭成功は抗清復明のために戦い続ける意志を固め、士大夫を捨て従軍しました。

隆武2年(1646年)12月、鄭成功は広東肇慶府の永暦帝を奉じて福建のアモイ・金門両島を根拠地とし、日本・シャム・安南などと貿易を行う一方で、広東・福建・浙江の各地を襲撃して抗清戦を展開していました。永暦13年、鄭成功は清に敗れ、アモイ・金門両島では清の勢いを阻止することは困難と考え、新たな拠点を探そうと考えていました。

福建省厦門周辺を根拠地にしていた鄭成功は、永暦15年(1661年)に金門島、澎湖諸島を経て台南の鹿耳門から上陸し、9ヶ月間にわたって赤嵌のプロビンシア城とゼーランディア城を次々と攻落し、オランダ人占領下の台湾を奪取しました。オランダ殖民総督は清康熙元年(1662年)旧暦2月1日に投降し、38年間の台湾占領時代が終止符を打ちました。

鄭成功が占領する台湾では、オランダ人による殖民制度を廃止し、赤崁楼を承天府と改称し、万年県と天興県を設置しました。故土を記念するため、台湾の総称を東都にしました。ゼーランディア城を安平鎮と改称しました。同時に屯田制(兵士などを平時は農業に非常時には戦争に従事させること)の施行、土地の私用化開始、官吏将兵の不動産占拠など、平埔族を山麓地帯に追いやりました。明永暦16年(1662年)5月8日、鄭成功は病死(肝病)、享年39才でした。

その後、鄭成功、鄭経と鄭克爽 が相次いで政権を23年間にわたって維持しました。製糖・製塩を奨励し、工商業を興し、貿易を発展させ、学校を設立し、原住民の農業生産方式を改良しました。これらの施策は台湾の経済・文化の迅速発展を促し、台湾歴史上においても重要な開発と発展の時期となり、「明鄭時代」と呼ばれます。
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