■ 1945年~現在 民国時代
民国時代:
戦後、国民政府は民国34年(1945年)に台湾を領有し、台湾省行政機関が地方行政区域を日本占領時代の街庄役場から郷鎮区役所を編制しました。同年12月に安平区役所が成立し、台南市政府に属する8つの自治区の一つになりました。民国35年(1946年)2月、台南市政府は行政区を改定し、自治区は7つとなりました。
民国39年(1950年)、中国国民党は台湾へ逃げ込み、中国での復権を図るため、台湾を復興の拠点にしました。民国43年(1954年)、中国国民党の軍隊は3回にわたって編制し、台湾全土に総動員体制期(これは反乱団体である中国共産党を平定(戡乱)するまでの国家騒動員の時期を指す)となり、各行政区に民兵を成立するよう命じました。現在も安平には民兵の部隊が存在しています。
民国39年(1950年)制定の『動員戡乱時期臨時条款』に従って、台湾は「縣」内に「縣轄市」、「鎮」、「郷」を、「省轄市」内に「區」を設置し、省内の基層行政単位を「里」、「村」としています。村長と里長は公民選挙より選出され、区長の監督下において任期の3年間、村、里の公務などを執行します。民国40年(1951年)、区長も民選となりましたが、民国48年(1959年)に区長は市長からの要請で任命するように政令を改正しました。この改正により安平は統治時代から脱却し、民主時代を始めることとなりました。
安平市民は強い絆で結ばれた町であり、その住民が持つ独特な背景から安平人は勤勉、朴実の性格が形成され、昔から塩作り、漁業及び養殖業で生計を立てていました。近代工業社会に突入してからは、海や川の汚染や土砂の堆積問題がますますひどくなったため、安平の住民は漁業で生計を立てられなくなり、このきっかけで軽工業に従事するようになりました。例えば、家具の製造、居住空間内装職人、建築、おもちゃ製造などの職業に就きました。しかし、資本主義の影響で安平の人口は流出してしまい、これらの職業に就く人も減少します。
発展と保存:
安平の住宅には様々なスタイルがみられます。民国40年代(1951年~)のアメリカの機能性重視かつ国際的流線型デザインを取り入れた建築スタイル、民国50年代(1961年~)の機能的なデザインに中国北方古典を取り入れた建築スタイル、民国60年代(1971年~)のアルミの門と窓を取り入れたシンプルな現代風建築スタイルなどの住宅は、昔ながらの鍵の字型住宅(単伸手住宅)、店舗兼住宅が一体となる商店型住宅、日本式宿舎と混在し、洋行が盛んであった安平の独特の新旧建築風景を楽しめます。残念ながら、観光事業で開発のため安価な消費や目先の利益に住民が一心に地域発展のみに重点を置くようになったため、情緒溢れる伝統の古都、安平の環境は次々と破壊され、伝統的建築物も廃墟と化していきました。 そのため延平街通りの伝統保存支持派と、観光事業拡張支持派がぶつかり合う問題の発端となってしまいました。現在は新たな建築が立ち並ぶ中に安平伝統の物産物などが収まり、古き良き伝統の町とは名ばかりとなった延平街通りが皮肉にもこの町の売り文句として生き残っています。
安平という町に更なる発展を支持する地元人と歴史的資産を保存する有識者との双方が対立し、地方政府と中央政府が古跡に関する保護、責任、立法などめぐって対立する事態まで発展しました。町の整備については台湾の現代的な発展を図ると同時に歴史ある空間を保護したいという矛盾に陥ってしまいました。事業拡張工事の支持者は、現代的に升目のような画一化を強調する都市と大量の窓があるビル建築スタイルで現代化の発展を主張しました。これに対し、歴史文物を支持するよう拡張工事に反対する者は、残された歴史文化の足跡を尊重し、延平街特有の曲がりくねった小路、人が交流する憩いの空間などが重要な歴史的地位を占めると主張しています。
双方は一歩も譲らない事態となり、安平の空前の発展さえも危うくなりました。停滞的な発展と無謀な保存は累積してきた歴史的資源を失うことになりかねません。歴史の歩みと豊富な自然人文資産を保存するため、台南市政府は「安平港国家歴史風景区」という双方の考えを考慮した計画を提示し、中央政府からの支持で2008年国家建設計画に予定されています。これを新たな安平と輝きの未来を期待できることでしょう。
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