■ 1895~1945 日本占領時代
占領時代:
清光緒20年(1895年)、日清戦争で中国が敗戦したため、清光緒20年(1895年)に日本と下関条約を締結しました。同条約により台湾を日本に割譲し、同年5月台湾東北の澳底から上陸し、台湾住民が建てた台湾民主国家を武力で鎮圧しました。9月に台南に入り、台湾は日本の領土として納められました。日本軍は台湾を支配、統治するため台南で台南県を設立し、安平を支庁に設置しました。
明治28年(1895年)、台南県を台南民政支部にし、安平を安平出張所にして台南民政支部に属しました。
明治34年(1901年)、効忠里は効忠里安平街(一鯤みから七鯤みまで)に名を改めました。
明治37年(1904年)、日本政府は高雄港を建設することで、安平は伝統的な大港としての地位が奪われました。
明治43年(1910年)、イギリスの安平領事館を撤廃しました。
大正9年(1920年)、台湾総督府(台湾を統治していた日本の官庁機関で庁舎は現存し、台湾の総統府として現在も使用されている)は地方行政制度を制定し、台北、新竹、台中、台南の四つの市、47郡と155街荘を設けました。安平は台南市と合併し、台南安平という行政区になりました。
日本占領時代、台湾全土に保甲制度が制定され、安平では菜市仔通りを中心に五つの保正を編制しました。保正は日本政府の許可の下でアヘンライセンスをもらい、アヘンとタバコを専売する特権があります。当時の保正は日本政府の市役所からの委任であり民選ではなく、警察署からの指揮を受けていました。中でも、その地域の有識者などが委任されることもあります。保正の仕事内容は主に地方の紛争を調停し、町住民の戸籍、税金、各種の救済、町の雑務と政令の伝達などがあります。警察の仕事内容と類似しているが、警察の権力はさらに上にあります。
大正11年(1922年)、日本政府は安平運河を建設し始め、大正14年2月17日に通水式典を行いました。
昭和5年(1930年)10月26日、台南市の安平で「台湾文化三百年記念」が開催されました。
戦略地位の喪失:
日本の植民地を統治する政策において、海防は「要塞化」という概念を取り、それに従って要塞を建設し、安平の伝統的な軍事の地位が殆ど喪失しました。日本は台湾の防衛策として一つの海防だけでポイント的に防衛するのではなく、近代軍事概念を導入し、陸軍、空軍、海軍を編制し、台湾全島及び付属の島々を具体的に防衛する一つの単位とします。台湾本島で軍隊を配属する以外に、憲兵と警察により全面的警備制度が設けられました。この制度は伝統的旧社会に対して斬新で未知の経験であり、安平歴史の独自の色をなくしてしまうこととなりました。
貿易内政:
日本占領時代の50年間において、日本政府からの軍事鎮圧で一時的に興した社会運動も皇民化教育(大日本帝国においてアイヌ人や琉球人などのマイノリティーと、台湾や朝鮮など外地の住民に対して、天皇と国家に対する忠誠心を持たせるために行われたとされる強制的な教化政策。)など各種の政策によって台湾の政治と経済が変わっていきます。
日本政府は台湾の都市を新たに整備し、「北米南糖」政策を取ることにより、台湾南部の平原はサトウキビを栽培し、砂糖を生産する経済区域にしました。さらに、台湾を縦断する鉄道の建設で、台湾の経済産物砂糖を運搬する鉄道が大都市に集中するようになりました。また、鉄道の縦断によって基隆港と高雄港まで運ばれるようになり、日本本土への輸出が進み、南北の二大都市と港が一体となる都市構造が形成されました。この形成の過程において、初期には基隆、淡水、安平、打狗(高雄)が特約港となり、各国と貿易を行いました。台湾と中国の政経、社会の関係を断絶するように、中国の商船は四つの港の税関での納税をしてから最初に停泊した港に戻り、荷を降ろすように制定しました。日本政府は台湾沿海の港と中国の間にあった長期の貿易と港運の習慣が変わるように打ち出した施策です。
安平港は1906年以来、海底・河床などの土砂が堆積したことと、総督府は南アジア政策に合わせ、積極的に高雄港を開港すること、同時に現代的官僚体制を整え、行政区を再整備したため、台南安平という伝統を象徴する地位を抑えられました。様々な政治と経済の政策の転換に伴い、旧安平港が受けた競争と圧力は日に日に増していました。
それにしても、安平では日本占領時代で着々と現代化が進み、例えば、税関にステンレス製の灯台を設置し漁船が帰港する際の頼りとなり、竹子門発電所で安平に電力を供給し、暗かった安平にも光を持たせるようになりました。また、安平運河の工事、安平港の改良工事や水道水の普及などが挙げられます。塩田、醤油の製造工場、化学工場、造船工場及び学校の設立などは日本占領時代に台湾が現代化への転換における重要な指標となります。後期の皇民化政策では、優秀な人材と南進産業の育成に重要な役割を提供しました。
明治32年(1899年)以来、台湾総督府は台湾の住宅の建設基準と都市計画などを設け、現代技術基準を取り入れ、くねくね曲がった道をまっすぐにして新たに碁盤の目のような都市の道路ネットを造り上げ、台湾都市の現代化へ向けた最初の一歩を踏み出しました。日本の統治を象徴するように、安平での官庁公舎、公共建設などは日本式の建築で建設されました。王鶏屎洋楼などの洋式建物は後期になって建設された建物です。このように、日本式の建物、洋式の建物や単伸手住宅が混合する安平では、住宅をもって象徴する文化、権力、階級という相互関係が表れています。
統治後期:
日本占領時代の後期に、太平洋戦争が勃発し、戦争体制の下で安平の住民は老若男女を問わず軍夫、軍属、志願兵、徴兵、看護士及び兵工という編成で動員されました。軍夫とは兵隊の雑務の処理や弾薬の運搬などの仕事をし、軍隊と一緒に移動はしますが戦線に参加する兵士と違います。軍属とは、日本語を話し兵士間の連絡のやり取りを通訳することなどが仕事です。
戦後のある統計によると、戦死した安平の住民のうち中国で十数人が安平で埋葬された以外は、南洋で行方不明者となりその数は少なくとも100人以上にのぼります。安平の若者は太平洋戦争で約200人の戦没者を出し、動員された人数の5分の1を占めました。
日本の敗戦後、日本兵士は武装を解除され、日本兵は収容所に収容され、中国との戦後処理原則に基づき、高雄の港から船で日本へ帰りました。これで日本による50年の占領時代の終わりが告げられました。
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