:::
サイトマップ
 

全文検索
歴史人文 歴史人文
※

歴史概要 人文紹介
歷史人文示意圖
 [中文][Eng.][日語][Home]
:::清占領時代

* オランダ占領前  * オランダ占領時代  * 明鄭時期

* 清占領時代  * 日本占領時代  * 民国時代
 

領事館前河港圖

■ 1683年~1895年 清占領時代

統治時代:
清軍が台湾を攻めたのは、単にそこに反乱分子が存在するためでありました。ゆえに、鄭氏政権崩壊後、当時の皇帝康煕帝は、台湾を領有することは国家財政に負担を与えるものだとして、台湾を放棄しようと考えていました。しかし、施琅は台湾の権益を欲してか、皇帝に上奏文を提出し、台湾の土地の肥沃さ、物産の豊富さ、戦略的価値も高いと訴え、皇帝はこの上奏を受け入れ、台湾領有を決めました。清朝統治当初、台湾本島と澎湖には「台湾府」が置かれ、福建省に隷属させられ、これにより、清国は212年にわたって台湾領有しました。

清が台湾を領有した後、安平の相対的な地位が落ち、鳳山県に隷属させられました。康煕60年(1721年)5月、朱一貴の反乱が起こり、台湾府城が攻め落とされました。6月に清軍は鹿耳門港から上陸し反乱を鎮圧し、安平の住民と駐在した清の軍隊が朱一貴の乱を鎮圧することに役に立ち、功績を称えるため、康煕61年(1722年)清から安平鎮から効忠里と改称しました。

安平は清に領有された後、軍事の要塞として重視し、町に官署が林立しました。

康煕の半ば、安平港の水路は広く港に千艘の船を停泊することもできました。しかし、嘉慶時代の「台湾県誌」によると大きな商船は安平港へ入港することが出来ないと掲載されていました。道光2年(1822年)の夏に、大雨で曽文渓の堤防が決裂したため、大量の土砂が安平に堆積し、台江はなくなり平地となります。安平はこの時期に台南との間に陸地ができたため、安平の軍事と商港としての重要な地位が失われることとなりました。

雍正9年(1731年)、清が境界を改めて制定するため、安平は再度に台湾県に隷属させられました。

咸豊8年(1858年)にアロー戦争に敗れた清はイギリス、フランスと天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平港や基隆港が欧州列強に開港されることとなりました。その後、外国の商人や宣教師が大量移住したため、商務と行政機関も相次ぎ増設されました。例えば、領事館など外国の洋行のための施設設立の他、病院、公館、本屋などは安平仔街に林立しました。

同治3年(1864年)に安平税関が設立されました。開港以来、列強の勢いで進出したため、安平住民の日常生活にも影響が出始めました。快速の国際化が進んでいく一方で、生活と文化の習慣の違いにより、安平住民と外国人の間に摩擦が絶えませんでした。

同治13年4月(1874年)、日本政府は西郷従道、大隈重信を首脳陣とした台湾出兵の軍を整え、台湾南部の恒春に上陸、やがて南部の一端を占領した牡丹社事件がありました。その後、清は台湾の海防を強化するようと沈葆楨を台湾に派遣し、台湾の防衛情勢を視察した上で安平大砲台を設置したのが現在の億載金城です。台湾が日本に割譲される直前の1895年、台湾住民は壮絶な戦いを展開し、二鯤み砲台からは2発発射され、来襲した日本の戦艦に的中し、海岸を防御する砲台にあるべき機能を発揮しました。

光緒11年(1885年)には台湾省が設けられ、福建省の管轄から独立を果たします。初代巡撫(知事に当たる職)の劉銘伝は省都を台中に置き、中部に台湾府、南部に台南府、北部に台北府の3つの府と、台東地区を直隷州とする行政区分を行いました。安平県は台南府に隷属させられました。この行政の区分は日本が占領する前まで続いていました。


軍事要塞と宗教信仰:
清はそれまで台湾を「化外の地」として積極的に統治することはなかったのですが、台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、中国からの移住民は殆どが男子で、移住民と先住民の間の交流や通婚は禁止されていたにもかかわらず、現実には多く行われていました。清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛を強化しました。

朱一貴の反乱が起こり、清朝は、台湾に再び反清基地が出現することを警戒し、統治が強化されました。朱一貴の反乱で台湾における軍事の概念は「“攻め”と同時に“守り”も重要である」と転換し、特に台南を軍事の要塞とし、駐屯地を増やし、警備に当たる場所も増加しました。

当時、安平は既に台湾水師協という海軍が駐在し、海軍の重鎮でした。台湾府は福建の管轄に属していたため、各営の官兵は、すべて福建から派遣された班兵が交替で守っていました。そのため、同郷から来た異なる班兵が、部隊ごとに安平で廟館を建造し、故郷の神を祀り集会を開く場所としました。当時これらの班兵が建てた廟館は、全部で「提標館」、「烽火館」、「福建安館」、「金門館」、「海山館」の5つがあり、合わせて「安平五館」と称しました。その後、軍が管理する機能は衰えていたため、五館の機能も失われていきました。現存するのは、「海山館」のみです。水師協にしろ五館にしろ、結局これは清の帝国権利の象徴にすぎません。

安平にきた開拓者は漢人の信仰と部落形式を安平の地と融合しました。大量の移住者は6社と分けられました。6社とは、海頭社、港仔尾社、王城西社、妙寿宮、十二宮社と灰窯尾社のことです。6社には20個以上の神社があり、それぞれ違う神様を祀っていたほか、住宅の特殊な造型、低く狭い純朴な壁と門が特徴であります。神秘に満ちた魔よけの剣獅と独特な照壁、刀剣屏など多種多様な魔よけの飾り物もあります。また、街角にある神社や曲がりくねった路などは安平の独特の建築構造となります。


清時代の文学:
清政府は台湾の軍事的地位を重要視するのみならず、教育や文学の振興なども積極的に行いました。最初の台湾知府である蒋毓英は文学と教育を興すため、康煕23年(1684年)に安平県で儒学を設け、日に日に文芸の関係者が集まり、安平とテーマにした作品も多くなりました。

top