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:::明鄭時期

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受降圖

■ 1661年~1683年 明鄭時期

統治時代:
台湾へ中国から鄭成功が渡ってきた明永暦15年(1661年)にオランダ人を撃退し、オランダ人による支配から解放されました。同年12月鄭成功はゼーランジャ城を安平鎮(安平の名の起源)とし、鄭成功父子が居住することにより「王城」と呼ばれ、明鄭政権の始まりとなりました。赤崁に承天府を設置し、総称東都で、北の万年県と南の天興県を設けました。

鄭成功はオランダ人が安平から撤退した後も、オランダが施した台湾での統治体制を継続し、承天府は行政業務を担い、安平は軍事業務を担いまいた。安平を軍事の拠点にしたのは、安平の地理情勢以外に、オランダ人が安平城に大規模の軍事設備を完備したことにあります。オランダ人が長年に渡り修繕と拡張工事をしたため、鄭成功が領有した安平鎮城は上下3階構造の建物になっています。最上階は面積約900坪で洋式砲台が設置され、2階は総督府、会議場となり、1階は面積約1000坪の武器弾薬庫と食料貯蔵室です。安平通りに警察署、裁判所などの政府機関や市場、家畜加工場、刑務所と娯楽施設などが点在しました。

明永暦16年(1662年)5月8日に鄭成功は安平鎮城で死去し、中国へ反攻する事業が中断されました。鄭経(鄭成功の長男)は内部の政治闘争を経て政権の座につき、陳永華を参謀とし、東都を東寧に改称し、天興、万年両県を州に編制しました。

明永暦23年(1679年)、参謀の陳永華は鄭経の孫の鄭克臧を監国にするとアドバイスしました。

明永暦35年(1681年)鄭経は40才に承天府で死去、子の鄭克[土爽]が王位を継ぎましたが、幼少であったため、権力は家臣が思うままにし、政情が不安定になりました。

明永暦37年(1683年)、鄭成功の臣下であった施琅は、清に寝返り、清軍を手引きして台湾を攻めさせました。澎湖での戦闘の末、鄭軍は壊滅。鄭克[土爽]が降ったため、わずか23年で鄭氏政権は終焉しました。


貿易内政:
明鄭時代、台湾は日本との貿易が盛んであり商船は年間50艘以上が往来し、砂糖・鹿皮・米・中国の絹織物などを輸出し、軍需物資を輸入していました。商船も南洋まで行って貿易を行いました。その後、イギリスと通商貿易協定を締結し、鹿皮・砂糖などを輸出し、イギリス製の武器弾薬を輸入しました。安平とアモンにもイギリス商館を設置しました。  オランダ占領の末期になると、安平港に土砂の堆積は日増しに問題となる一方、鹿耳門港は商業港としての条件を整えているため、鄭成功が鹿耳門港に上陸し、それ以来鹿耳門港は安平、赤崁と合わせて台湾沿岸の3大港となりました。

オランダ人は政権を固めるため、教会を建て宣教師が先住民に布教しましたが、明鄭時代は孔子廟を建て、台湾で最初の学校を設立し、天妃宮を建て、媽祖を祀り、漢文学と伝統的な信仰宗教の力で政権を維持しました。中国から大量の漢人の移民が渡台し、開拓しました。


明鄭文学:
鄭政権は明政権の延長と鄭成功の思い込みで、「台湾通史」によると当時約800名あまりの有識者が鄭成功と一緒に渡台しました。

沈光文は文献の先駆者で、台湾の詩、文章、俳句などの始まりは沈光文からで、移民文学、ノスタルジア文学、郷土文学、民俗文化の提唱者でもあります。

鄭成功が渡台した後、沈光文のことを大事にしていたが、「台湾賦」で鄭経が王位を継承する正当性がない上に、政治政策が本末転倒と書いてあるため、鄭経は不満を抱き、密かに引退をしました。沈光文の作品は台湾の文学に多大な影響を及ばしました。

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