明天啓元年(1621年)7月11日、オランダ艦隊は澎湖島を占領し、翌年測量船で水深を測り、台南と高雄の間の一鯤み(今の安平)は船を停泊できる場所として最適であることを確認しました。明天啓3年(1623年)に、原住民からの攻撃を防ぐため、安平港に竹と砂で砦を建設しました。翌年、福建総兵兪咨臬は澎湖島を討ち返したため、オランダ人は澎湖島を放棄し、安平にゼーランシャ城を、赤嵌にプロビンシャ城を築いて台湾経営に乗りだしました。
ヨーロッパ人が16世紀半ばに描いた台湾地図から、安平が占める地理情勢の重要性がうかがえます。当時の安平は現在の一鯤みにあたり、縦3.5マイル(5.635キロ)、横0.25マイル(0.4025キロ)の南北に長い地形となり、北に北汕尾島、その北側に鹿耳門があります。一鯤みから南には7つの島々が台湾を結ぶように弧を描きながら点在し、太平洋を背に東シナ海を囲う形を成し、真ん中に出来た河のような場所が台江と呼ばれます。この7つの大小なる島々は一鯤みから七鯤みと称されています。
当時の文献記載により、一鯤みから七鯤みとは7座の山々のように広大な海に点々とし、その島々により片方は大海でもう片方は大きな商船でも自由に行き来することができ、千艘の船を停泊することもできるほど大きな港となります。
当時のオランダ人は東南アジアにおける特殊な位置にある安平を見て、オランダ東インド会社が安平にゼーランジャ城を、赤嵌にプロビンチア城を築き、台湾の権益を独占しました。オランダが占領する38年間、オランダ東インド会社バタビア(ジャカルタ)基地から派遣された フレデリック・コイェット(Frederik Coyett) をはじめ12人が台湾長官として駐留していました。
当時台湾の国際貿易が盛んでいて、中国や日本、安南(中部ベトナム)、暹邏(タイ)からの商船は全て安平に停泊していました。オランダ人は漢人と原住民が開拓した事業に依存し、西洋の近代殖民統治で台湾の資源を略奪し、莫大な利益を手に入りました。
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