:::
サイトマップ
 

全文検索
歴史人文 歴史人文
※

歴史概要 人文紹介
歷史人文示意圖
 [中文][Eng.][日語][Home]
:::オランダ占領前

* オランダ占領前  * オランダ占領時代  * 明鄭時期

* 清占領時代  * 日本占領時代  * 民国時代
 
■ 1154年~1623年 北宋からオランダ占領前

北宋から:

中国の文学で「台湾」が最初に記載されたのは北宋紹興24年(1154年)陸游の俳句の作品「感昔」、「歩出万里橋門至江上」です。

感昔:「行年三十憶南游,穩駕滄溟萬斛舟。嘗記早秋雷雨後,柁師指點説流求。」
「流求」とは台湾のことで、当時台湾の安平から出入りすると推測されます。

歩出万里橋門至江上:「久坐意不懌,掩卷聊出遊。一筇吾事足,安用車與騶?浮生了無根,兩踵踏百州。嘗憶航巨海,銀山卷濤頭。一日新雨齋,微茫見流求。」  脚注の「在福州泛海東望、見流求國」で地理的な位置から推測すると、「流求」とは台湾のことを意味します。

原住民時代
漢人が台湾に渡る前、安平は平埔族(へいほ族)の西拉雅支族(シラヤ族)の大員(Tayouan)社の居住地でした。大員は原住民の言語でタイユアン、つまり来訪者を意味し、西台湾の原住民は南洋のマレー族とインドネシア族であり、西拉雅支族の言語である新港話では海浜の地を意味します。当時の大員社は上鯤みあたりに、イグサの住宅で生活をしていました。

明時代、陳第は沈有容と共に海賊を追って台湾に入り、「東番記」を書きました。「東番記」によると、平埔族には文字や暦がなく、素朴で質素な生活を送っています。男は狩猟、女は農耕という生活の形式が定着し、行儀がよくお互い尊敬し合い、悠々と暮らしていました。

オランダ占領前:
オランダ人が占領する前の台湾は、フィリピン群島と日本列島の間に位置し、東シナ海を抑え、地理的な要衝を占めていましたがその開発は遅れ、和冠や海賊流匪の巣窟になっていました。15世紀末期に始まった「大航海時代」により、ポルトガル人、スペイン人が東南アジア海域にまで現れるようになり、台湾海峡はヨーロッパ人が東南アジアの覇権を決定する重要な役割を占めていました。台湾島もポルトガル人に発見され、彼らが「Ilha Formosa(麗しの島)」と呼んだことから、現在でも「フォルモサ島」、「美麗島」と呼ばれることがあります。

 明嘉靖時代、日本の海賊は台湾の安平までやってきて、卑劣な行為を繰り返しました。明天啓元年(1621年)、海賊の顔思斉と鄭芝龍(鄭成功の父)は台湾の西南沿海地域を占領しました。

 ヨーロッパ列強のポルトガル人、スペイン人とオランダ人は海洋貿易の支配権を奪い合いました。1602年、オランダ人は商業勢力を拡大するため、ポルトガル人とフィリピンを奪い合いましたが、あえなく失敗しました。再度中国のマカオの使用権のため、ポルトガル人を攻撃しましたがこれも失敗に終わりました。翌年、オランダ艦隊2艘は澎湖島を占領し要塞を構築しました。明は強硬な対策をとり、福建巡撫の徐学聚に澎湖島を討ち返すよう命を下し、オランダ人は再び挫折することになります。それから十数年間オランダ人は東北アジアの海域に具体的な商業の拠点を持つことはありませんでした。

 1622年にオランダ艦隊17艘で再びやってきて、澎湖島を占領し中国の沿海地域にも攻撃しました。これに対し明朝は澎湖からオランダ人が退去し、その代わり台湾島に移転し、そこに防衛工事を構築するよう希望しました。しかしオランダ側はこれを受けいれず、1624年、ついにオランダは澎湖諸島からの撤退を余儀なくされ、台湾本島に移りました。このとき台湾本島は明の領土ではなかったため、明朝はこれを黙認し、以後台湾本島南西部はオランダ人に占領されました。

top